Reggi Jackson

Reggi Jackson

先輩は1947年テキサス州レフジオ生まれでヒューストン育ち。レフジオは60%がヒスパニックとラテン系。30%白人で10%のアフリカ系アメリカ人の貧困街。お金になる仕事は無し。生後2ヶ月でヒューストン郊外のアルビンへ引越し。アフリカ系アメリカ人は事実上住むことが許されない街でフレジオよりは仕事があった。石油の産地だからね、テキサスは。関連会社も多いし、よその国の方々が出稼ぎに来るの。ボクも炭坑の街で生まれ育ったからなんとなく分かるけど、エネルギー源が取れる地域ってキャバレー、風俗、立ち飲み屋が入り乱れ、祭りも派手。それをヤーさんがマネージメントしてるから、実家の理髪店はパンチパーマで大忙しだった。でもね枯れたら終わり。石油、石炭が出なくなったら街が終わる。ヤーさんたちは景気が良い街に移動するの。たくましいよね。たくましいのは先輩も。新聞配達のギャラで牛を購入、しかも12歳で。育てて売ってまた子牛を買って..を繰り返し牛を増やし16歳で牧場を借りて車も所有していた。牛のエサを運んでいたらしいよ、無免許だけどね。

1965年ドラフト12位でニューヨーク・メッツ入団。66年マイナーリーグで奪三振記録達成。67年ひじを壊す。68年メジャーで開幕から先発ローテーション入り。後半は故障で離脱するが、133奪三振を記録。69年リリーフで6勝3敗。球団創設初の地区優勝にまぁまぁ貢献。同年ボルチモア・オリオールズとのワールドシリーズ。第3戦の7回途中からリリーフ。2イニングを0点に抑えセーブを記録。キャリアを通して最初で最後のワールドシリーズ制覇。ザッとこんな感じだけど、先輩は球は速いけどボール球が多いの。コーナーギリギリとか無いのよ。故障も多いし。

牛が好き過ぎて、優勝したボーナスでテキサスに牧場を購入した先輩にトレードの話が。1971年カリフォルニア・エンゼルスへ移籍。当時のオーナーはカントリー歌手のジーン・オートリーさん。先輩はインタビューで「ファンだったので、とてもうれしいよ」と答えている。ひかえめな先輩の笑顔がニューヨーク時代と明らかに違って見えた。都会に馴染めなかったと言うか、性に合わなかったのでしょう。牛のストレスを読み取る才能は今も昔もメジャーリーグNo.1の先輩は、自然を愛する根っからのローカル野郎だからね。

カリフォルニアは自然が多く、無農薬野菜や魚介類も豊富に取れるから、先輩も安定して野球に打ち込める。もう1つ良かったのがピッチングコーチのトム・モーガンとの出会い。誰のさしずも受けないで自己流を貫き通してきた先輩は、カリフォルニアの地で優しい気持ちになっていた。コーチから「制球が定まらないのは、投球後の体重移動」との指摘を素直に受け止め、1972年フォーム改造に取り組む。これがドンピシャはまり先輩の運命を変えた。173kmのストレートにブレーキの効いたカーブがストライクゾーンぎりぎりにズバズバ入るようになり、73〜75年でノーヒットノーラン4度達成。当時バッテリーを組んでいたキャッチャーのジェフ・トーボーグが「10球受けるとミットの革が熱くなり、焼いたステーキの香りがしたよ」だって。水を得た魚だね。

1979年フリーエージェントとなり、1980年ヒューストン・アストロズとメジャーリーグ史上初の100万ドル(4年で450万ドル)で契約。100万ドルは当時の日本円で2億6千万円。故郷のアルビンから65kmしか離れていないヒューストン市はローカル野郎の先輩にとって絶好の環境。契約を決めるのにさほど時間は掛からなかった。地元新聞には「全米で認知されていなかったアストロズにエルヴィス・プレスリーが入団したようなもの」と書かれた。同年ナショナルリーグ西地区を制覇。プレイオフ進出を決め全米の注目を集めた。先輩加入が効いたね。

1980年8月4日パドレス戦、大スター " デーブ・ウィンフィールド "の顔面に166kmのストレートを2度投げ込んだ先輩。間一髪でかわしたデーブはこの年のオフにヤンキース入りが決まりそうな大切なときだった。そんなの関係ねぇーと先輩は3球目も同じところに投げた。しかもスピードアップの168km。さすがにキレた。「Yo ! Bastard !」と叫び、マウンドへ大股で走り、鋭い右ストレートをくりだすデーブ。こぶしの骨の硬いところが先輩の左眼辺りに入り脳が揺れてフラっとしたところにコンビネーションの左アッパー。アゴに当たらなかったが上唇をかすめた。流血。乱闘が収まり止血せずそのまま投げた。試合は勝った。ヒーローインタビューで先輩は「デーブは本気で殴ってきた。今後誰かが向かってきたら自分からパンチをだすと決めた。俺にはテキサスの血が流れているからね(笑)」ニヤっと笑ったが眼は鋭かった。1981年ドジャース戦で5度目のノーヒットノーラン達成。87年270奪三振、88年228奪三振と2年連続最多奪三振賞を獲得。オフにフリーエージェントとなる。

1988年11月日本球界入りに前向きな先輩はオリックスと交渉。200万ドル×2年契約。古巣エンゼルスも150万ドル×3年契約で交渉に入ったが...。テキサス・レンジャースが180万ドル(2年目は140万ドル)と中途半端な金額を提示した。地元に牧場とレストラン、そして銀行を2つ持つ先輩は金額ではなくローカル愛と家族愛を優先した。「The Last Place Is Texas 」ここで引退すると決めた。90年6月アスレチックス戦で6度目のノーヒットノーラン。91年5月ブルージェイズ戦、「体調が悪い。5回もたないかもしれない。次のピッチャーを用意しておいてくれ」先発完投にこだわった先輩が珍しく弱気発言。だが7度目のノーヒットノーラン達成、44歳3ヶ月は今でもメジャーリーグ史上最年長記録。92年エンゼルス在籍時の背番号「30」が永久欠番に指定された。93年9月マリナーズ戦、1回表に右ひじから「ピシッ!」と音が...。腕がダラーんと伸びた状態から曲がらない。1アウトもとれず2安打4四球5失点で降板。これが現役最後の登板。最後の投球速度が158km。立派すぎて泣けてくる。ひかえめで口数が少ない46歳。蛭子能収と同じ歳である。

ノーヒットノーラン7回。2位のサンディー・コーファックスは4回。奪三振数が5,714個。2位のランディ・ジョンソンは4,875個。約1,000個の差がある。96年アストロズとレンジャーズでの背番号「34」も永久欠番に指定された。99年野球殿

堂入り。最後にピートローズ談で終わりにしよう「メジャーリーグには数少ないライオンと大勢の子羊がいる。間違いなくライアンはライオンだ」
ブログに戻る